2012年9月20日木曜日

空海が飛び降り?—73番・出釈迦寺

 「近くの崖から空海が飛び降り、釈迦や天女が現れて助けた」というユニークな言い伝えが残っている。飛び降りた崖は見えないけれど、境内にはその方向を示す遥拝所がある。


 73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」。香川県善通寺市にあり、72番札所「曼荼羅寺」とも近い。


 スズメをあしらった瓦や幕、工芸品が見られる。威厳のある家紋から、ゆるキャラ風まで




 寺近くの民家の塀に、仏の焼き物を見つけた


 なむ

四国のど真ん中—新長谷寺

 「四国の真ん中、とはずいぶん大仰な名前を付けたなあ」。愛媛県四国中央市という自治体名を聞いたときの第一印象だ。でも実際に足を運んでみて思った。「うん、四国のど真ん中だよね」と。

 「ユースホステル新長谷寺」に泊まったのは偶然だった。徳島でなんとなく西に向かって車を走らせていたところ、日が沈んできた。行き先を高知か愛媛か迷っていたため、どちらにも行ける四国中央市で宿を探したのだ。

 お寺が宿泊客を受け入れる「宿坊」という形態。関係者の方々は温かいホスト精神にあふれていて、とても居心地がよかった。

本堂(左)の隣に宿泊施設がある

屋根瓦には葵の紋

 施設の第一の魅力は、なんと言っても眺めの良さ。眼下には高速道路が伸び、遠くに目を移すと高い煙突がモクモクと煙をはいている。きくとこの地域は、大王製紙の企業城下町という。

夜でも煙突はモクモクと煙を吐く

夜が明け、「こんな町だったのか」と知る

 お寺の第二の魅力は、豊かな自然。色んな木々や草花が見られるのだけれど、すべて手が行き届いている。それに境内には立派な石垣もあって「こんな高い所によく運んだものだ」と感心させられる。


 山を下って街に向かうと、「エルモア」「エリエール」の看板が目に飛び込んでくる。さすが「大王製紙の町」。この商品の看板は、町中でいくつも目にした。

町中で見かける「エルモア」や「エリエール」の看板

 にょきにょきっと空に向かって伸びる煙突は、国内屈指の高さを誇るという。工場の横を通ると、酸っぱい臭いがした。

大王製紙の煙突

 四国中央市といえば今月、セブンイレブンが四国進出に合わせてここに拠点を置くことを発表した。行ってみて納得。徳島にも、香川にも、高知にも接しており、四国のどこにでも簡単に足を伸ばせるのだ。

 この後、高知県に寄ったのだけれど、帰り道で四国中央市を再び通ったときに「もう一泊したいなあ」と思った。四国観光の拠点におススメです。

2012年9月17日月曜日

日本のエディンバラ城—丸亀城

 石垣の美しさに、ぐっと見とれた。規模では熊本城に及ばないけれど、平地から天守閣の頂上に向かって石垣が積み重なっている姿はお見事。そのシルエットを眺めながらスコットランドの名城、エディンバラ城を思い出した。

石垣が美しい丸亀城

 雨が降ったり止んだりする中、傘を片手に城を上った。観光案内所の前には、「石垣の名城・丸亀城」という看板が立っていた。「やはり地元の人たちも石垣の美しさを誇りに思っているんだ」と納得する。

モザイク画のような石垣

 そこから100メートルほどの真っすぐな上り坂「見返り坂」を進むのだが、右手側には石垣が高くそびえ、迫ってくる。高さは22メートル。何十、何百という石垣のピースが、緩やかに曲面を作り上げる。

高さ22メートル

 天守閣にたどり着き、ガイドさんが教えてくれた。「美しい石垣はいくつかの条件がうまく重なって生まれた」
①近江(現在の滋賀県)の石垣職人の技。1641~1657年に藩主を務めた山崎家が、石工集団「穴太(あのう)衆」の職人をつれてきた
②豊富な石材。小豆島など瀬戸内海の島は、大阪城などに石垣用の石材を提供した。丸亀城の眼下には島々が浮かんでおり、「石垣の名城」となるのは自然の成り行きだった

西、南側も石垣は立派

 瓦には、約200年間藩主を務めた京極家の家紋「四つ目結」。お遍路をしていると、京極家から支援を受けていた寺の瓦にも、この家紋が見られる。もともとは京極家のルーツ、近江の佐々木家の家紋だったもの。そして時代が下って分家に伴い、変化が加わったデザインも登場する。地理や時間の隔たりにさらされながら、家紋は生き続けてきたのだ。

京極家の家紋「四つ目結」

 絶好の見晴らし。瀬戸内海に架かる瀬戸大橋の先には、観覧車が見える。鷲羽山ハイランドではないか! 「高校生のときに遠足でいったなあ」としばし感慨にふける。

瀬戸内海を一望できる

 城から下りたとき、雨が止み、雲間から陽光が差し込んだ。振り返ると石垣一つ一つが個性を持って輝き、巨大なモザイク画のようだった。

2012年5月11日金曜日

超濃厚に乾杯 ラーメン「はなふく」

 何度目のチャレンジだったろう。これまでは店の前までは行っても、入店を待つ人が多くて、そのまま引き返すのがパターンになっていた。
 きょう淡路島の北部にあるラーメン店「はなふく」に行った。平日で、なおかつお昼時を過ぎた1時半だったので、待つ人は4組ほど。20分で入店できた。
 そもそもこの店を知ったのは「天下一品」がきっかけ。島外に出たときには必ずといっていいほど食べていることを周りに話したところ、はなふくを教えてもらったのだ。
 メニューを見て驚いたのは、ラーメンの種類の多さ。「白しょうゆ」「たまりしょうゆ」「魚介鶏とんこつ」「鶏こく」「鶏とんこつ」の5種類がある(あっさり順)。
 これほど色んな味を区別して提供できる秘訣は、カウンター席から厨房を観察して分かった。しょうゆ系のあっさりスープと鶏とんこつ系のこってりスープを組み合わせて、そのさじ加減で味の違いを生み出していた。
 僕が注文したのは、もちろん「鶏とんこつ」。天下一品ファンとしては、一番こってりしたのを選ぶのは当然だ。待つこと5分。カウンター越しに鉢を受け取った。
はなふくの鶏とんこつ
 顔を近づけてまず感じたのは磯の香り。湯気に乗ってノリの風味がやってきた。それと、ネギは見た目からして新鮮で、実際に噛んでもシャキシャキという音がする。淡路島の海と山の幸がアクセントとして利いている。
 そして肝心のスープ、ひと言でいうと「超濃厚」。かつて新横浜のラーメン博物館で食べた九州のとんこつラーメンを思い出したけど、それと比べると臭みがない。やっぱり天下一品に似ている。違いはというと、天一のスープは飲んだ後、舌に甘み、のどに辛みが残る一方、はなふくのスープは後味がしょっぱい。飲み慣れているのは天一だけど、はなふくのも何度も飲むうちに病みつきになりそう。
 天一との違いは麺にもある。僕が食べたちぢれ麺は、弾力があって歯ごたえが楽しめるし、スープとしっかり絡んでいた。あと、チャーシューは「角煮」といってもいいほどジューシーで、これだけでご飯2杯はいけそうだ。
 結論。一度食べるのをおすすめ。ただし、あまり待たない時間帯を選んでくださいね

2011年9月7日水曜日

陽光で、もう蒸発しそう—エフェス遺跡

 トルコ屈指のローマ遺跡「エフェス」は見応えがある。もっと実感に基づいて言うなら「歩き応え」と言った方が正確かもしれない。とにかく規模が大きくて、水を持たずに敷地に入ったら、エーゲ海沿岸の強烈な陽光を受けて危うく蒸発しそうになった。

 イスタンブールから、飛行機でトルコ第3の都市イズミールへ。この航空路線は30分〜1時間に1本という頻度で出ている。その引っ切りなしに運行する様子には、日本の電車山手線や地下鉄御堂筋線を思い出した。

 イズミールから1時間弱、電車に揺られセルチュクに。そこからはバスで遺跡に向かう。車中で知り合ったトルコ人の1人は、兄弟がナント20人もいると教えてくれた。そのときは1人の母親が20人全員を生んだのかと思ったけど、思い返すと父親に奥さんがたくさんいるということなのだろう。20人兄弟なんて——。一夫多妻制のイスラム圏にいるのだ、という実感が沸いてきた。

 トルコの観光施設はどこでもそうだけど、入場料の支払いはクレジットカードが使える。旅行者には、両替の手間が省けてうれしい。

 ゲートを越えてしばらく歩くと、左手に山が見えてくる。よく見ると山肌に石がびっしり敷き詰められている。これがエフェス遺跡最大の見所、大劇場だ。観客席は急勾配で、上るのもひと苦労。立ち入り禁止の上半分も含めると、2万4000人もの収容人数を誇ったというのもうなづける。

 劇場遺跡の定番、真ん中の舞台でポンポン手を叩く仕草をしてみてた。「お〜、やっぱり素晴らしい音響だなあ」とひとりごちる。

 大劇場を起点に、遺跡は二つの方向に延びる。一つは幅11㍍、長さ500㍍の大通り。敷き詰められている石畳が、年月を経て光沢を帯びている。これまでに一体、何人の人がこの上を歩いたんだろう。石畳の下をのぞくと、どうやら水道管の跡らしいものが見えた。

 もう一つは、大劇場の裏山の斜面に沿って広がるエリア。ここの見所はなんといっても「図書館」。丸みを帯びた柱や壁の装飾は壮麗で、敷地内の他の遺構とは一線を画している。エジプトのアレキサンドリアもそうだったように、地中海沿岸で栄えた文明は知恵を重んじて図書館を大切にしていたんだ——とあらためて思う。

 遺跡を訪れる観光客も実にさまざま。地球の歩き方で「トラヤヌスの泉」と紹介されている遺構をながめていると、後から来た西欧人たちは「トライヤーノ」と呼んでいた。イタリアかスペインの人たちなんだろうか?

 と、こんな感じでローマ文明が誇る土木技術を、この遺跡ではまさに身体全体で感じられました。ローマ好きにはたまらない、オススメの旅先です。

 あと繰り返しになりますが、真夏に行かれる方は必ず水を持って敷地に入ってくださいね。

2011年8月19日金曜日

30㌢の距離で見たフェルメール

京都で開催中のフェルメール展に行ってきました。フェルメールとは、17世紀に活躍したオランダの画家。これまで名前を耳にすることはあっても、そのすごさまでは実感がありませんでした。「どれどれ、品定めでも——」なんていう軽い気持ちで会場に足を踏み入れましたが、同時代にオランダで描かれたほかの画家の作品も並んでいて、十分に楽しめました。

僕にとって絵画を見る機会が最も多いのは、海外旅行です。パリ、バチカン、ニューヨーク…。大都市には美術館があって、街歩きの行き先として欠かせないことが多いのです。でも、そういう場合は何かしらのテーマをもって見ることは難しいです。膨大な数の作品群は、時代や作風も多岐に及ぶからです。

今回の展示会は、作品数は約40とそう多くはないのですが、作品に関する説明を丁寧にしていくれているため、17世紀のオランダの世界観にどっぷりとつかることができました。とくに、展示会が「フェルメールからのラブレター」というテーマを掲げているだけあって、手紙を切り口として作品を見せるという発想が面白かったです。当時、手紙は人と人をつなぐツールとして大きな役割を担っていました。画家たちは、作品の中に手紙を登場させることによって、いろいろな思いを込めたというのです。

それにしても17世紀前半というと、日本では長谷川等伯の松林図や、俵屋宗達の風神雷神図を思い浮かべます。描かないことで何かを表現したり、独特の世界観をかたちにしたりと、いずれの作品も世界の至宝であることに疑いの余地はありません。しかし、「写実」という一点を取り上げた場合、当時のオランダの作品には素直に「すごいなあ」と感嘆の声を上げてしまいました。

では、それらの作品の中で、フェルメールはどのように卓越しているのか? それに胸を張って言える答えを、僕は持ち合わせていません。たしかに「光の魔術師」と称される、その光と影の表現の手腕には舌を巻きましたが、ほかの画家の作品も上手いといえば上手いのです(笑)

しかし、たった一つ、フェルメール作品がずば抜けていると思ったのは、「表情」です。作品「手紙を読む青衣の女」は、間近で直に見て初めて気づいたのですが、女性が実に"えも言われぬ"表情をしているのです。「この女性が手にしている手紙は、何について書かれているんだろう。きっと待ち焦がれた恋人や夫からのものに違いない」。そんな思いを抱かずにはおられません。

悦び、嬉しさ、悲しみ…。それらの言葉でこの表情を言い表す必要なんて、ないんだと思います。なぜなら、言葉にできない感情を表現する方法として、芸術はあると思うからです。そこにこそ、世界中の人たちを引きつけて止まないフェルメールの魅力があるのではないでしょうか。

作品展は10月中旬まで京都市美術館で開催されています。近くに寄られた際は、一度、足を運ばれてみてはいかがでしょう。

2011年8月16日火曜日

「値切り」 それは知的なゲーム

 海外旅行を通して得た、値段交渉のコツをまとめました。

 日本では、買い物をするときに、商品に値札が付いているのが当たり前です。スーパーやコンビニで値切っている客は見かけません。でも、南アジアや中東、アフリカなどでは、店の商品に値札がついておらず、それぞれ価格交渉する必要があります。僕が行った国では、インドとエジプトがそうでした。

 交渉の難しさは国によって違います。エジプト人よりインド人の方が、明らかにタフな交渉相手でした。紅茶を値切って買ったつもりが、しばらくして店の奥から「あの日本人、こんな高い値段で買ったよ」という声が漏れ聞こえてきたことがありました。いっぱい食わしたつもりが、実はいっぱい食わされていたのです。

 そんな「一敗地にまみれる」経験をしたかと思えば、昨年行ったエジプトでは「名誉挽回」。お土産のスカーフを2枚買ったときは、あれこれと交渉した末に、僕が思った通りの予算で買い物をすることができました。お店の人には「あなた、なかなかヤルねえ」と言われ、ちょっとエヘンと咳払いをしたい気分になりました。

 そんなこんなで僕なりに得た価格交渉のコツは、
「欲しいモノをお店の人に悟られるな」です。

 店で買いたいモノを見つけたとします。ときには「うわあ、どうしても欲しいわ」なんていう代物に出合うこともあるでしょう。それでも、心の内をお店の人に察知されてはいけません。

 最初に値段を交渉する商品は、「本命ではない」「安め」のものを選びましょう。そして値段を互いに主張した後は、できるだけ相手に歩み寄らず、「徹底抗戦」の姿勢を表します。相手に「タフな相手だ」と印象づけるのです。

 交渉が膠着したら、今度は「本当はこれが欲しかったけれど、しょうがない。違うものにするよ」と、さりげなく本命の商品に話を移します。ここで「妥協してあげる」という姿勢をアピールすることが大切です。

 もうこれだけでも、本命の商品の交渉はやりやすくなっています。なぜなら、買い手の闘争心と妥協を目の当たりにした後に、店の人が高値をふっかけてくることはないからです。店側が最初に提示してくる値段が低ければ、最後に落ち着く値段もやはり低くなるのは当然です。

 また、交渉する商品をより高いものに移すことも、店側に喜ばれます。それだけ、店側が得る利益も大きくなるのですから。同じように、購入する点数を増やすことも、交渉を有利に運ぶ材料になります。

 上で話したスカーフを買ったときは、このようにして店の人の提示した価格で買うことにしました。「ただし、もう一枚同じものを付けてね」とこちらも条件を出して。

 別れ際、店の人と握手をしながら思いました。「値段の交渉って一種のコミュニケーションじゃん。ゲームみたいに頭を使うし、なかなか楽しい」

2011年6月18日土曜日

「夫婦善哉」と自由軒

織田作之助の短編小説「夫婦善哉」を手に取ったのは、ひょんなことがきっかけだった。

 午後9時ごろ、お腹を空かして大阪・ミナミの商店街を歩いていると、聞き覚えのある名の飲食店に出くわした。「自由軒」。一風変わったカレーを出す店として、テレビなどでも取り上げられている店だ。ものは試しに入ってみた。

「大衆洋食」と銘打つだけあって、店内は庶民的な雰囲気だ。壁には西洋画が何点か掛かっていて、老舗の上品さも持ち合わせていた。聞くと店は今年、91年目を迎えたという。

看板メニュー「名物カレー(650円)」を注文した。店員さんは「インディアン」と厨房に声を掛けた。「インド仕込みの本格派が出てくるんだろうか」。否応なく期待が高まる。

 出てきた料理は、ルーとライスが分けられた一般的なカレーとは違う。ご飯はすでにカレーと合わさっており、その上に生卵が載っている。ピラフみたいにパサパサした食感を予想して口に運んだが、実際には水分をたくさん含んで(いい意味で)ベッタリしていた。具は牛肉とタマネギだけと、いたってシンプル。香辛料がよく効いており、辛い物好きのぼくには食べ応えがあった。

あらためて店内を見渡すと、一枚の額が目に付いた。「トラは死んで皮をのこす。織田作死んでカレーライスをのこす——自由軒本店 織田作文学発祥の地」と書かれていた。「大阪らしく誇張された表現やなあ」と笑ってしまったけれど、メニューに誇りを持っているお店の姿勢には好感を持った。また同時に、店の精神的な支えとなっている織田作之助とはどんな作家なのか、興味が沸いてきた。その数日後、「夫婦善哉」の文庫を買った。

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 物語の舞台は、昭和初期の大阪。借金のある家で育った蝶子が、芸者として働きだすところから始まる。そこで知り合った妻子持ちの男・柳吉と恋仲になり、夫婦として年月を経る姿を描いている。

柳吉は、いわゆるダメな男だ。化粧品の卸問屋の跡取りに生まれながら、蝶子に入れ込んで離婚し、跡取りの座も妹の婿養子に奪われてしまう。金に困ると妹に金をせびりに行く。蝶子がお座敷に上がって稼いだり、蝶子と一緒にさまざまな商売して貯めた金も、その都度散財してしまう。

でも、どこか憎めない。手元にあるお金は、とっておけば生活が楽になるのに、カフエ(飲み屋)の女性にチップとして弾んでしまう。損得勘定ができない姿に、「バカだなあ」と思いつつも、「逆に日々の自分は損得勘定に縛られ過ぎてないか?」と一抹の憧れを抱いてしまった。

蝶子は、健気という言葉がぴったりくる女性だ。これだけダメな柳吉に、なんべん裏切られても付いて行く。生活が苦しくても、「妾にならないか?」なんていう話には目もくれない。逆境にあっても矜持、プライドを手放さない様は格好いい。

柳吉のわがままに振り回され、蝶子は母の死に際に立ち会えない。絶望の淵に立たされた蝶子は、物心両面の苦しさから抜け出そうとガス自殺を試みる。「男女が一緒にいる、夫婦として生きる意味ってなんだろう?」。読みながら、そんな鬱屈した思いが頭をもたげてくる。しかし物語は最後、夫婦が法善寺横町の店で仲睦まじく善哉を食べるシーンで幕を閉じ、読み手をホッとさせてくれる。

「この物語を通して、作者は一体何を伝えたかったんだろう?」。そんな問いを自分の中で繰り返しながら、タイトルの「善哉」という言葉について調べてみた。そこで意外な事実を知り、ぼくは思わずはたと膝を打った。

善哉は、音読みでは「ゼンザイ」だけれど、訓読みは「ヨキカナ」。つまり、この小説は、「夫婦よきかな」というテーマのもと、男女がともに生きる素晴らしさを追究していたのだ。

それぞれのシーンでは、幸せどころか、苦しい境遇にある男女を描きながら、物語全体としては夫婦への“賛歌”としてまとめ上げてしまう。そんな織田作之助の腕前に脱帽です。

2011年6月8日水曜日

歴史を「逆流」する

NHK・Eテレの番組「さかのぼり日本史」は画期的だ。といっても内容が、ではない。歴史を切り取る手法が、である。

これまで歴史を学ぶ方法は、時間の流れに沿って「時代を下る」のが当たり前だった。中学や高校の歴史の授業では、ネアンデルタール人とか石器時代とかから始まり、古代、中世、近世と次第に現在に近付いてくる。
そういう歴史のたどり方は、社会全体についてだけではなく、個人についても同じことが言える。例えば、結婚式で流される新郎や新婦の生い立ちの映像は、赤ちゃん時代から始まって、成長をなぞりながら二人の出会いをゴールとして描くのがお決まりだ。

でもこの番組は、そのタイトルの通りに時代をさかのぼる。まず最初は戦後の政治を、その次に太平洋戦争、日中戦争、満州事変を取り上げる。そして昭和初期の政党政治が続く、といった流れなのだ。
このやり方の良い点は二つある。ひとつは「なぜそうなったの?」といった疑問や関心を、学ぶ人により強く、強烈に持たせられること。これまで通り、普通に歴史を学ぶと「原因→結果」という順序で出来事を知ることになり、「結果」を知るときには既に「原因」が当たり前の事柄になってしまっているのだ。戦争など起こってしまった事について、「原因を知りたい」という“渇き”を持つ事は、歴史が動くメカニズムにより焦点を当てることになる。
次に、近現代の学習にしっかりと時間を割けることもメリットだ。従来は、原始時代〜江戸時代に大半の時間を費やし、近現代は余った時間でささっとやる傾向があった。ところが、時代をさかのぼる形式だと、近現代が真っ先に扱う時代になるため、十分な時間を割けるようになる。

近現代を振り返るということは、日本がさまざまな犠牲を払いながらも、民主主義を定着させてきたプロセスをおさらいすることでもある。「民主主義が上手く機能しない」という現在の日本が抱える最大の問題の「解」は、この時代にじっくりと真っ正面から向き合うことから生まれる。
歴史の学習が、現代社会の改善に役立つチャンスだ。学校教育の現場でも、歴史を逆流してみたらどうかな?

2011年2月28日月曜日

アカデミー賞にチャチャ入れる

 「英国王のスピーチ」が米アカデミー賞の作品賞を取った。受賞の知らせを聞いたその足で、早速、映画館に向かった。出演者の顔のどアップを多用するカメラワークとか、オシャレなセットとかに興味を持ったんだけれど、それらよりも目を(耳を)引いたのが「音楽」だった。
 簡単にあらすじについて触れておくと、舞台は第二次世界大戦期の英国。国王のジョージ6世は、今にも迫り来るナチスドイツへの徹底抗戦を、スピーチを通して国民に訴える。言語療法士ライオネル・ローグの助けを借りて、吃音という障害の克服に挑む姿を描いている。
 山場であるスピーチシーンの見せ方が工夫していた。ライオネルを指揮者、ジョージ6世を演奏者に見立てて、スピーチを「演奏会」として見せたのだ。音符に置き換わった言葉は、抑揚や強弱、そして小休止までもが音楽としての力を与えられ、演説にみなぎる気迫が映画の聴衆にまで伝わる仕組みだった。
 ここでBGMとして使われていたのが、ベートーベンの交響曲第7番第2楽章。「なんと良いセンス。演説の言葉を引き立てつつ、音楽自体にも力がある」。
 次にスピーチ後のホッとした感を伝えるときのBGMとして、これもまたシーンにぴったりの曲が流れた。ベートーベンのピアノ協奏曲第5番2楽章。でも、この曲名を思い出したあたりで、ハッと我に返った。
 ドイツと戦うぞ、と気合いを入れているまっ最中に、ドイツを代表する作曲家の音楽を流してよいものだろうか?それってありなの?

2011年1月8日土曜日

あの焼肉を訪ねて—神奈川・大和

焼肉店「天狗家」
 学生時代にこよなく愛した焼肉店が、神奈川・大和にある。「天狗家」。卒業からかれこれ10年近く経つけれど、ふとした拍子にあの味が恋しくなり、ふらっと立ち寄ってみた。

 夕食どきを過ぎた9時半という時間帯にもかかわらず、土曜日だということもあって、店には10組ほどの客が入店を待っていた。相変わらずの人気ぶりだ。昔は、向かいのガストで順番待ちをしたことを思い出した。「飲食店に入るのを飲食店で待つ」という、今考えても奇妙な行動だった。

ライス大
 かれこれ1時間近く経って、女性店員に席まで案内される。カルビ2人前とご飯大盛りを頼む。「この店のウリは、圧倒的な肉の量。昔はカルビ2人前でお腹がはち切れそうになったものだ」というぼんやりとした記憶を頼りにしたのだ。けれど、実際に注文したものが運ばれて来ると、自分の記憶に微妙なズレがあったことに気づいた。お腹を膨らしていたのは、肉の量もさることながら、てんこ盛りの白米だったのだ。

 ともあれ、目当ての肉をさっと軽く炙り、早速口に運んだ。肉の脂と甘口のタレが口の中で化学反応を繰り返し、脳内に甘美な時が流れる。厚みのある肉は繊維がしっかりしており、噛んでも噛んでも化学反応は止まらなかった。

カルビ2人前
 一般的に「美味しい焼肉」とは、どんなものを指すのだろうか。まずひとつは、日本人に最も好まれる霜降りだろう。「口に入れた途端、さっと溶けて消える」。そんな表現がぴったりのヤツ。これは、素材の良し悪しが決定的にモノを言う。神戸、松坂、宮崎など、産地が前面に出てくることが多い。

 次に挙げられるのが、さっぱりした赤身。良いものはナイフがスッと通るほど柔らかく、後味も尾を引かない。年を重ねるごとに、こちらに好みがシフトする人も多い。

 これらが焼肉の二大カテゴリーだが、天狗の肉は、どちらにも当てはまらない。位置するのは、第三のカテゴリー「B級グルメ」だ。前のふたつのように「素材のままを楽しむ」ということはせず(できず)、その代わりに揉みダレをはじめとする調味料の力を駆使して、素材の力を何倍にも引き立てる。また値段が張らないため、好きなだけ肉を注文してお腹を満たせるのも、意外とよその店では得られない食体験かもしれない。

 そんな店の特徴は、主な客層が20代という客層にもしっかりと表れている。煙に包まれながら勢いよく肉を掻き込む彼らの姿を目にして、一瞬、10年前の自分がそこにいるかのような錯覚にとらわれた。

2010年9月16日木曜日

イスラム地区、ジモティーに誘(いざな)われ

地方へと路線が延びるカイロ最大の駅はラムセス駅と呼ばれる。紀元前13世紀に版図を広げて活躍したファラオの名にちなんでいる。

 夕方というにはまだちょっと早い時間帯。アレクサンドリア発の列車からラムセス駅に降り立つと、真っ先にイスラム地区に向けて歩を進めた。日本に出発するのはこの日の晩。それまでにどうしても見ておきたいエリアだったのだ。

 30分以上歩いただろうか。地図上では1.5㌔ほどだったはずなのに、歩けども歩けどもそれらしき風景が見えてこない。「道を間違えたんだろうか?」 そう思いながらきょろきょろしていると、突然辺りが開け、大通りに出た。見ると、道路に沿って高さ3〜4㍍の壁がずーっと先まで続いている。

 「これがイスラム地区か」。教えてもらう必要もなく、それが目的地だということは一目瞭然だった。市街地を取り囲んで延々と続く城壁からは、「外敵の侵入をはね返して永遠に存続するぞ」という、かつてここを拠点にしたイスラム王朝の"叫び"が聞こえてきた。

 門をくぐると、世界が一変した。足下からは石畳が広がり、視線の先にある建物、建物からイスラムのテーストが感じられた。イスラム建築というと、ドーム型の屋根を連想する人も多いと思うけれど、ミナレットと呼ばれる「尖塔」もあちらこちらに建っていた。

 ハーン・ハリーリと呼ばれる土産物店が軒を連ねる一画を越えた辺りで、1人の60歳代くらいのおっちゃんに声をかけ
られた。

 「日本人?」。「そうだ」と答えると、男性は「トランジスタ」「柔道」と日本語で話し、背負い投げの型を小さくやってみせた。聞くと、おっちゃんはかつてエジプト軍に所属しており、そのときに日本人から直接柔道を教わったのだという。「トランジスタなんて言葉、ここのところめっきり耳にしなくなったなあ」なんて思いながら、見知らぬおっちゃんに対する警戒心は溶けていったのでした。

 おっちゃんが「付いておいで」というので、今まで通ってきた大通りから路地に足を踏み入れた。「これは、だいたい500年、600年前の建物だよ」というので、「古いねえ」と返すと、「そんなこと全然ない。こんなの新しい建物だよ」と言って笑った。そりゃそうか。だって、ここから目と鼻の先にあるピラミッドなんて、紀元前2500年頃に造られたというし。

 やっぱりジモティー(地元の人)は違う。日が暮れかかって見学時間が終わっているというのに、係の人に声をかけて開けてもらえるんだから。紹介してもらった建物は、かつて地元の名士がすんでいたもの。部屋を仕切る木製の窓や、天井一面には幾何学模様が細かーく施されている。端々にまで神経を通わせたデザインを目の当たりにして、イスラム文化の奥深さを肌で感じた。

 屋上に出ると、周囲の建物が夕日を受けて輝いていた。
お茶目なおっちゃんは、屋上から飛び降りる動作をしながら「エジプトエアー」といっておどけて見せた。続いて僕も「ジャパン・エアライン」と言って飛び降りる仕草をした後、2人で大笑いした。

 そうこうしているうちに、ふと時計に目をやると針が7時を指していた。「そろそろ行かなくては」。おっちゃんと固い握手を交わし、僕はタクシーに飛び乗った。

2010年9月15日水曜日

「アラブ」の反米感情—アレクサンドリア

アレキサンドリア図書館
 紀元前300年ごろに建てられたという図書館を再現し、2001年にオープンしたのが現在のアレキサンドリア図書館。その内部は入ってみてビックリ。ビル6階建てほどの高さの吹き抜け空間に、階段状の床が設けられ、本棚や机がぎっしり並んでいる。

 歩き疲れて、椅子に座ってボーっとしていると、1人の男性が話しかけてきた。現地の人らしく立派なあご髭を蓄え、清潔感のあるポロシャツにジーンズ姿だ。

  「隣に座っていい?」と礼儀正しい一言に、「もちろん」と返答した。わたしが日本人だと分かると、「ミギ」「ミギ」としきりに言う。何度も聞き返すうちに、彼の言っているのが「メイジ」だと分かった。「MIGI」と「MEIJI」を混同したのだろう。

  「エンペラー・メイジは偉大だ」と言った後、今度は「エンペラー・ヒロヒト」「ヒロシマ」「ナガサキ」と知っている日本語を続けた。やっぱりここは図書館だけあって、好奇心旺盛な人が集っている。どうやら日本の近代史を学んだことのある人のようだ。

 「アメリカは好きか?」。原爆投下の地を挙がった後、こんな質問が降ってきた。そこで思い出したのは、ガイドブック「地球の歩き方」に載っていた一文。「現地の人と政治について話すときは気をつけましょう。知らないうちに怒らせてしまうことがあります」——

 直接的な回答を避けながらも、正直に思うところを伝えた。「原爆は決して許せない。けれどもアメリカというよりも、むしろ戦争という行為自体により強い怒りを覚える。戦争をするのは政府だが、苦しむのは一般人だ」

 彼はわたしの言葉に納得した様子だったが、続いて持論を展開した。「自分のものを他人に奪われたらどうする? 見て見ぬ振りをするか? いや、そいつと戦って奪い返すだろう? オレたちは今、同じ状況にあるんだ。アメリカは、オレたちアラブから土地を奪ってイスラエルをつくった。オレたちは戦って、それを奪い返すんだ」

 わたしは話の接ぎ穂を失い、無言でいるしかなかった。

 「お前はいい奴だ。別にお前に戦えと言ってるわけじゃないよ」。彼はそう言うとポケットから1ポンド硬貨を取り出し、「友だちの証だ」と手渡して立ち去った。

 どう見ても、彼は過激派とは縁のない一般市民だ。反米感情が、市民レベルに深く根差し、そしてひとつの国や地域だけではなく、アラブ社会全域に広がっていることを目の当たりにした瞬間だった。

2010年9月14日火曜日

バス運転士の「さじ加減」—カイロ

バスの中から見たピラミッド
 有名なクフ王のピラミッドやスフィンクスは、カイロ・ギザ駅から20㌔弱。歩いて行くにはちょっと遠い。ガイドブックを開いてバス停への行き方を調べていると、地元の40代くらいの男性が声を掛けてきた。
 彼は、ハイアットだかの外資系ホテルで警備の責任者を務めているという。物腰が柔らかく、外国人に親近感を持っている様子だ。「ピラミッドに行きたいんだろ?」と言うと、停留所まで連れて行ってくれた。
 一緒にバスが到着するのを待ってくれたのは、ありがたかった。現地のバスは、行き先をアラビア文字で記している。数字までもがアラビア文字なので、乗るべきバスを見分けるのは至難の業なのだ。
 さらに彼が力になってくれたのは、バスが来て、いざ乗ろうとしたときだ。停留所にさしかかっているのに、バスはスピードを落とそうとしない。彼は、通り過ぎそうなバスに、「乗りたい」と意思表示した。それでもバスは減速しただけで、完全には止まらなかったけれど、彼に促されて僕はなんとか飛び乗ることができた。
 最後列の席に座って、ガラス越しに振り返ったが、彼はすでに雑踏の中に消えていた。
 それから人が乗ってくるのを見ていると、バスが人を乗せるときに減速はするけれど、完全には止まらないことが分かった。この「減速」というのがくせ者で、年を召した女性が乗るときにはほぼ停止状態に近いのだけれど、男のときには減速が十分じゃないときもある。バスに乗れるか、乗れないか。それは運転士のさじ加減ひとつなのだ。
 ひとりの中年男性が乗ろうとしたときは、いったんは手すりを握ったのだけれど、スピードが落ちなかったために体を車両に入れられなかった。憂いに満ちた表情の男が、バックガラス越しに小さくなっていった。

2010年9月12日日曜日

紛争地帯で事故る—アブ・シンベル

砂漠のど真ん中で立ち往生
 「イスラム教徒とキリスト教徒の争い、部族間の争い、警察への抗議が過激化。治安部隊との衝突も発生しています」
 これは外務省海外安全ホームページのエジプト南部に関する危険情報の一節だ。アスワン—アブ・シンベル間は、20〜30台のバスが隊列を組み、警察車両に護衛されながら移動する。わたしはホテルで申し込めるツアーに参加した。
 午前3時、従業員に部屋をノックして起こしてもらい、1階のロビーで待機。少し遅れて4時前になって、トヨタのワゴン車がホテル前に現れ、わたしを拾った。街の外れで他のバスが集まってくるのを半時間ほど待ち、いよいよ出発した。
 走り出してみると、運転手が「飛ばし屋」ぶりが発覚した。どんどんスピードを上げ、隊列を組んでいるはずの前の車をどんどん追い抜いていく。まるでカーレースに参加しているみたいだ。いったん街を抜けると、広がるのは信号も何もない砂漠。「確かに車同士の衝突は考えにくいけれど、どこか不安…」
 そんな予感が的中したのは、空が白み始めた5時ごろ。ガタガタ、ガタガタ。大きな音が車内に響き、眠りの世界から現実世界に一気に引き戻された。ガタガタ、ガタガタ。音は一向に止まない。「ウオー」。車内で自然と上がる、悲鳴にも似た声。
 停車すると、焦げ臭いが車内に充満した。乗客が次々と飛び降りた後、状況が明らかになった。どうやら後輪が大きい石を踏み、タイヤがそれを巻き込んだようだ。運転手はタイヤを交換し始めたが、作業に手こずっている様子。タイヤだけでなく、ホイールも壊れていたらしく、作業は次第に大掛かりになった。
 再出発まで半時間。砂漠のど真ん中、しかも警察が護衛するほど危険地帯で、ポツリとたたずんだ。
 「まあいっか。エジプトには砂漠を巡るツアーもあるし…」

は〜るばる来たぞ大神殿—アブ・シンベル

アブ・シンベル大神殿
 手荷物検査を受けてゲートを抜けると、目の前に10階建てほどの高さの土山が現れる。どうやら、この「盛り上がり」が神殿らしい。ぐるっと回り込むと、正面入り口が見えてきた。
 「ずいぶん遠くまで来たもんだ」。旅行チラシやガイドブックで見た大神殿の実物が、いま目の前にある。長い旅路と時差ぼけのせいで、霧がかかったようにモヤモヤしている脳に、ようやく感慨が沸き上がってきた。
 大神殿は紀元前1200年ごろ、ラムセス2世の時代に造られた。しかし造営の目的や、首都テーベ(現在のルクソール)から遠く離れたこの地が選ばれた理由は、未だに分かっていないという。
 現在の大神殿は、周囲三方をナスル湖に囲まれている。実は1960年に始まったアスワンハイダムの建造で水没の危機にさらされたが、ユネスコの支援を受けて湖畔に移築されたのだ。約1000のブロックに切り取り、アーチ型の山の内部に張り付ける作業は「あまりの規模の大きさに圧倒される」ほどだったらしい(吉村作治著『ピラミッド文明・ナイルの旅』)
 内部は5〜6㍍ほどの高さの大部屋に、いくつかの小部屋が付属する造り。立ち並ぶ石像に迫力があるほか、壁という壁に施された彫刻や絵画が、費やされた労力と時間を物語っている。今回の旅で見た遺跡の中で、ベスト3に入る逸品だった。



大神殿前でヨガをするグループ
 大神殿前の広場では、人々が思い思いに時間を過ごす。「そこのベンチで夜を明かした」と話してくれたのは、関西からやってきた大学生3人組。砂漠で野営していたところ、「危険だから」と警察に連れてこられたという。たくましいのやら、危なっかしいのやら(笑)。目を移せば、西洋人グループがヨガをしていた。セミナー好きな国民性を持つ、アメリカ人たちかな?

2010年9月11日土曜日

異国で遭ったオヤジ狩り—アスワン

ナイル川から眺めた岩窟墳墓群
 エジプトの南端、スーダン国境近くの街アスワン。アブ・シンベル宮殿への足がかりとして、多くの旅人たちはここで一泊する。何千年も前からヌビア人という民族が住んできた。その顔立ちは「中東」より「アフリカ」の要素が強く、「遠くにやって来たぞ」という旅愁をかき立ててくれる。
 岩窟墳墓群は、古代エジプトやローマ時代の支配層の墓だ。小高い丘を利用して作られており、ナイル川対岸にある市街地からも、その偉容を眺められる。
 足を運ぼうと思ったのは、入場締め切り時刻近い午後5時だった。到着を急ごうと、現地の人が利用する乗り合いボートではなく、岸辺で声を掛けてきた人のボートを利用した。
 乗っているのは、わたしのほかに現地の乗組員2人。岸を勢い良く離れたボートは対岸に向かったが、岩窟墳墓群の方向からは微妙にずれている。「やばい」。悪い予感がわたしの中でくすぶり始め、直後にそれが当たってしまった。
 ボートは中州に停泊し、そこに乗組員の仲間たちが待っていたのだ。「25ドル」。男たちは何度も要求してきた。連れてきた乗組員らの方を見ると、顔に笑みを浮かべている。
 わたしは内心「25ドル程度だったら痛くない」と思いつつも、「要求をすぐに受け入れたら、次の要求が出てくるかもしれない」と心配し、「対岸に行くか、戻るかどっちかにせい」と突っぱね続けた。
 根負けしたのは、乗組員の側だった。そもそもボート運搬は家族で経営しているらしく、出発した岸では子どもや老人が彼を待っている。性根を据えて悪事を働けるガラではなかったのだ。
 乗組員は仲間に挨拶すると、再びボートを出発させた。今度こそは、対岸に向けて。
 旅先での孤立は、ときに命取りになる——

憧れの的 日本人女性—アスワン

 日中に断食する「ラマダン」を前日に終え、街はお祭りムードに包まれていた。
 「ハロー」。行き交う男や子どもたちが、人懐っこく声を掛けてくる。イスラム社会だけあって成人女性が積極的に話し掛けてくることはないが、赤や黄色の衣装に身を包んだ出で立ちは、街の雰囲気をぐっと明るくする。
 同年代の男たちは、わたしが日本人だと分かると、「日本人女性が好きだ」としきりにアピールしてきた。ある青年は携帯電話を取り出し、「日本人女性を待ち受け画面にしているんだ」と見せた。別の青年は「将来、日本人女性と結婚し、日本で働くのが夢なんだ」と熱く語ってくれた。
 後で聞いたところだど、日本人女性に対する人気はそれ自体の魅力に加えて、「結婚すれば新しい人生を切り開けるかもしれない」という彼らの"逆玉志向"にも支えられているらしい。
 ちなみに最近、彼らの間で株が急騰中なのが韓国人女性。「やっぱり時代は韓国なのか」。こんなところでも国力の栄枯盛衰が感じ取られるのでした。