なむ
2012年9月20日木曜日
空海が飛び降り?—73番・出釈迦寺
なむ
四国のど真ん中—新長谷寺
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| 本堂(左)の隣に宿泊施設がある |
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| 屋根瓦には葵の紋 |
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| 夜でも煙突はモクモクと煙を吐く |
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| 夜が明け、「こんな町だったのか」と知る |
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| 町中で見かける「エルモア」や「エリエール」の看板 |
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| 大王製紙の煙突 |
2012年9月17日月曜日
日本のエディンバラ城—丸亀城
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| 石垣が美しい丸亀城 |
雨が降ったり止んだりする中、傘を片手に城を上った。観光案内所の前には、「石垣の名城・丸亀城」という看板が立っていた。「やはり地元の人たちも石垣の美しさを誇りに思っているんだ」と納得する。
そこから100メートルほどの真っすぐな上り坂「見返り坂」を進むのだが、右手側には石垣が高くそびえ、迫ってくる。高さは22メートル。何十、何百という石垣のピースが、緩やかに曲面を作り上げる。
天守閣にたどり着き、ガイドさんが教えてくれた。「美しい石垣はいくつかの条件がうまく重なって生まれた」
瓦には、約200年間藩主を務めた京極家の家紋「四つ目結」。お遍路をしていると、京極家から支援を受けていた寺の瓦にも、この家紋が見られる。もともとは京極家のルーツ、近江の佐々木家の家紋だったもの。そして時代が下って分家に伴い、変化が加わったデザインも登場する。地理や時間の隔たりにさらされながら、家紋は生き続けてきたのだ。
絶好の見晴らし。瀬戸内海に架かる瀬戸大橋の先には、観覧車が見える。鷲羽山ハイランドではないか! 「高校生のときに遠足でいったなあ」としばし感慨にふける。
2012年5月11日金曜日
超濃厚に乾杯 ラーメン「はなふく」
| はなふくの鶏とんこつ |
2011年9月7日水曜日
陽光で、もう蒸発しそう—エフェス遺跡
トルコ屈指のローマ遺跡「エフェス」は見応えがある。もっと実感に基づいて言うなら「歩き応え」と言った方が正確かもしれない。とにかく規模が大きくて、水を持たずに敷地に入ったら、エーゲ海沿岸の強烈な陽光を受けて危うく蒸発しそうになった。
イスタンブールから、飛行機でトルコ第3の都市イズミールへ。この航空路線は30分〜1時間に1本という頻度で出ている。その引っ切りなしに運行する様子には、日本の電車山手線や地下鉄御堂筋線を思い出した。
イズミールから1時間弱、電車に揺られセルチュクに。そこからはバスで遺跡に向かう。車中で知り合ったトルコ人の1人は、兄弟がナント20人もいると教えてくれた。そのときは1人の母親が20人全員を生んだのかと思ったけど、思い返すと父親に奥さんがたくさんいるということなのだろう。20人兄弟なんて——。一夫多妻制のイスラム圏にいるのだ、という実感が沸いてきた。
トルコの観光施設はどこでもそうだけど、入場料の支払いはクレジットカードが使える。旅行者には、両替の手間が省けてうれしい。

ゲートを越えてしばらく歩くと、左手に山が見えてくる。よく見ると山肌に石がびっしり敷き詰められている。これがエフェス遺跡最大の見所、大劇場だ。観客席は急勾配で、上るのもひと苦労。立ち入り禁止の上半分も含めると、2万4000人もの収容人数を誇ったというのもうなづける。

劇場遺跡の定番、真ん中の舞台でポンポン手を叩く仕草をしてみてた。「お〜、やっぱり素晴らしい音響だなあ」とひとりごちる。
大劇場を起点に、遺跡は二つの方向に延びる。一つは幅11㍍、長さ500㍍の大通り。敷き詰められている石畳が、年月を経て光沢を帯びている。これまでに一体、何人の人がこの上を歩いたんだろう。石畳の下をのぞくと、どうやら水道管の跡らしいものが見えた。

もう一つは、大劇場の裏山の斜面に沿って広がるエリア。ここの見所はなんといっても「図書館」。丸みを帯びた柱や壁の装飾は壮麗で、敷地内の他の遺構とは一線を画している。エジプトのアレキサンドリアもそうだったように、地中海沿岸で栄えた文明は知恵を重んじて図書館を大切にしていたんだ——とあらためて思う。
遺跡を訪れる観光客も実にさまざま。地球の歩き方で「トラヤヌスの泉」と紹介されている遺構をながめていると、後から来た西欧人たちは「トライヤーノ」と呼んでいた。イタリアかスペインの人たちなんだろうか?

と、こんな感じでローマ文明が誇る土木技術を、この遺跡ではまさに身体全体で感じられました。ローマ好きにはたまらない、オススメの旅先です。
あと繰り返しになりますが、真夏に行かれる方は必ず水を持って敷地に入ってくださいね。
2011年8月19日金曜日
30㌢の距離で見たフェルメール
僕にとって絵画を見る機会が最も多いのは、海外旅行です。パリ、バチカン、ニューヨーク…。大都市には美術館があって、街歩きの行き先として欠かせないことが多いのです。でも、そういう場合は何かしらのテーマをもって見ることは難しいです。膨大な数の作品群は、時代や作風も多岐に及ぶからです。
今回の展示会は、作品数は約40とそう多くはないのですが、作品に関する説明を丁寧にしていくれているため、17世紀のオランダの世界観にどっぷりとつかることができました。とくに、展示会が「フェルメールからのラブレター」というテーマを掲げているだけあって、手紙を切り口として作品を見せるという発想が面白かったです。当時、手紙は人と人をつなぐツールとして大きな役割を担っていました。画家たちは、作品の中に手紙を登場させることによって、いろいろな思いを込めたというのです。
それにしても17世紀前半というと、日本では長谷川等伯の松林図や、俵屋宗達の風神雷神図を思い浮かべます。描かないことで何かを表現したり、独特の世界観をかたちにしたりと、いずれの作品も世界の至宝であることに疑いの余地はありません。しかし、「写実」という一点を取り上げた場合、当時のオランダの作品には素直に「すごいなあ」と感嘆の声を上げてしまいました。
では、それらの作品の中で、フェルメールはどのように卓越しているのか? それに胸を張って言える答えを、僕は持ち合わせていません。たしかに「光の魔術師」と称される、その光と影の表現の手腕には舌を巻きましたが、ほかの画家の作品も上手いといえば上手いのです(笑)
しかし、たった一つ、フェルメール作品がずば抜けていると思ったのは、「表情」です。作品「手紙を読む青衣の女」は、間近で直に見て初めて気づいたのですが、女性が実に"えも言われぬ"表情をしているのです。「この女性が手にしている手紙は、何について書かれているんだろう。きっと待ち焦がれた恋人や夫からのものに違いない」。そんな思いを抱かずにはおられません。
悦び、嬉しさ、悲しみ…。それらの言葉でこの表情を言い表す必要なんて、ないんだと思います。なぜなら、言葉にできない感情を表現する方法として、芸術はあると思うからです。そこにこそ、世界中の人たちを引きつけて止まないフェルメールの魅力があるのではないでしょうか。
作品展は10月中旬まで京都市美術館で開催されています。近くに寄られた際は、一度、足を運ばれてみてはいかがでしょう。
2011年8月16日火曜日
「値切り」 それは知的なゲーム
日本では、買い物をするときに、商品に値札が付いているのが当たり前です。スーパーやコンビニで値切っている客は見かけません。でも、南アジアや中東、アフリカなどでは、店の商品に値札がついておらず、それぞれ価格交渉する必要があります。僕が行った国では、インドとエジプトがそうでした。
交渉の難しさは国によって違います。エジプト人よりインド人の方が、明らかにタフな交渉相手でした。紅茶を値切って買ったつもりが、しばらくして店の奥から「あの日本人、こんな高い値段で買ったよ」という声が漏れ聞こえてきたことがありました。いっぱい食わしたつもりが、実はいっぱい食わされていたのです。
そんな「一敗地にまみれる」経験をしたかと思えば、昨年行ったエジプトでは「名誉挽回」。お土産のスカーフを2枚買ったときは、あれこれと交渉した末に、僕が思った通りの予算で買い物をすることができました。お店の人には「あなた、なかなかヤルねえ」と言われ、ちょっとエヘンと咳払いをしたい気分になりました。
そんなこんなで僕なりに得た価格交渉のコツは、
「欲しいモノをお店の人に悟られるな」です。
店で買いたいモノを見つけたとします。ときには「うわあ、どうしても欲しいわ」なんていう代物に出合うこともあるでしょう。それでも、心の内をお店の人に察知されてはいけません。
最初に値段を交渉する商品は、「本命ではない」「安め」のものを選びましょう。そして値段を互いに主張した後は、できるだけ相手に歩み寄らず、「徹底抗戦」の姿勢を表します。相手に「タフな相手だ」と印象づけるのです。
交渉が膠着したら、今度は「本当はこれが欲しかったけれど、しょうがない。違うものにするよ」と、さりげなく本命の商品に話を移します。ここで「妥協してあげる」という姿勢をアピールすることが大切です。
もうこれだけでも、本命の商品の交渉はやりやすくなっています。なぜなら、買い手の闘争心と妥協を目の当たりにした後に、店の人が高値をふっかけてくることはないからです。店側が最初に提示してくる値段が低ければ、最後に落ち着く値段もやはり低くなるのは当然です。
また、交渉する商品をより高いものに移すことも、店側に喜ばれます。それだけ、店側が得る利益も大きくなるのですから。同じように、購入する点数を増やすことも、交渉を有利に運ぶ材料になります。
上で話したスカーフを買ったときは、このようにして店の人の提示した価格で買うことにしました。「ただし、もう一枚同じものを付けてね」とこちらも条件を出して。
別れ際、店の人と握手をしながら思いました。「値段の交渉って一種のコミュニケーションじゃん。ゲームみたいに頭を使うし、なかなか楽しい」
2011年6月18日土曜日
「夫婦善哉」と自由軒
午後9時ごろ、お腹を空かして大阪・ミナミの商店街を歩いていると、聞き覚えのある名の飲食店に出くわした。「自由軒」。一風変わったカレーを出す店として、テレビなどでも取り上げられている店だ。ものは試しに入ってみた。「大衆洋食」と銘打つだけあって、店内は庶民的な雰囲気だ。壁には西洋画が何点か掛かっていて、老舗の上品さも持ち合わせていた。聞くと店は今年、91年目を迎えたという。
看板メニュー「名物カレー(650円)」を注文した。店員さんは「インディアン」と厨房に声を掛けた。「インド仕込みの本格派が出てくるんだろうか」。否応なく期待が高まる。
出てきた料理は、ルーとライスが分けられた一般的なカレーとは違う。ご飯はすでにカレーと合わさっており、その上に生卵が載っている。ピラフみたいにパサパサした食感を予想して口に運んだが、実際には水分をたくさん含んで(いい意味で)ベッタリしていた。具は牛肉とタマネギだけと、いたってシンプル。香辛料がよく効いており、辛い物好きのぼくには食べ応えがあった。あらためて店内を見渡すと、一枚の額が目に付いた。「トラは死んで皮をのこす。織田作死んでカレーライスをのこす——自由軒本店 織田作文学発祥の地」と書かれていた。「大阪らしく誇張された表現やなあ」と笑ってしまったけれど、メニューに誇りを持っているお店の姿勢には好感を持った。また同時に、店の精神的な支えとなっている織田作之助とはどんな作家なのか、興味が沸いてきた。その数日後、「夫婦善哉」の文庫を買った。
物語の舞台は、昭和初期の大阪。借金のある家で育った蝶子が、芸者として働きだすところから始まる。そこで知り合った妻子持ちの男・柳吉と恋仲になり、夫婦として年月を経る姿を描いている。柳吉は、いわゆるダメな男だ。化粧品の卸問屋の跡取りに生まれながら、蝶子に入れ込んで離婚し、跡取りの座も妹の婿養子に奪われてしまう。金に困ると妹に金をせびりに行く。蝶子がお座敷に上がって稼いだり、蝶子と一緒にさまざまな商売して貯めた金も、その都度散財してしまう。
でも、どこか憎めない。手元にあるお金は、とっておけば生活が楽になるのに、カフエ(飲み屋)の女性にチップとして弾んでしまう。損得勘定ができない姿に、「バカだなあ」と思いつつも、「逆に日々の自分は損得勘定に縛られ過ぎてないか?」と一抹の憧れを抱いてしまった。
蝶子は、健気という言葉がぴったりくる女性だ。これだけダメな柳吉に、なんべん裏切られても付いて行く。生活が苦しくても、「妾にならないか?」なんていう話には目もくれない。逆境にあっても矜持、プライドを手放さない様は格好いい。
柳吉のわがままに振り回され、蝶子は母の死に際に立ち会えない。絶望の淵に立たされた蝶子は、物心両面の苦しさから抜け出そうとガス自殺を試みる。「男女が一緒にいる、夫婦として生きる意味ってなんだろう?」。読みながら、そんな鬱屈した思いが頭をもたげてくる。しかし物語は最後、夫婦が法善寺横町の店で仲睦まじく善哉を食べるシーンで幕を閉じ、読み手をホッとさせてくれる。
「この物語を通して、作者は一体何を伝えたかったんだろう?」。そんな問いを自分の中で繰り返しながら、タイトルの「善哉」という言葉について調べてみた。そこで意外な事実を知り、ぼくは思わずはたと膝を打った。
それぞれのシーンでは、幸せどころか、苦しい境遇にある男女を描きながら、物語全体としては夫婦への“賛歌”としてまとめ上げてしまう。そんな織田作之助の腕前に脱帽です。
2011年6月8日水曜日
歴史を「逆流」する
これまで歴史を学ぶ方法は、時間の流れに沿って「時代を下る」のが当たり前だった。中学や高校の歴史の授業では、ネアンデルタール人とか石器時代とかから始まり、古代、中世、近世と次第に現在に近付いてくる。
でもこの番組は、そのタイトルの通りに時代をさかのぼる。まず最初は戦後の政治を、その次に太平洋戦争、日中戦争、満州事変を取り上げる。そして昭和初期の政党政治が続く、といった流れなのだ。
近現代を振り返るということは、日本がさまざまな犠牲を払いながらも、民主主義を定着させてきたプロセスをおさらいすることでもある。「民主主義が上手く機能しない」という現在の日本が抱える最大の問題の「解」は、この時代にじっくりと真っ正面から向き合うことから生まれる。
2011年2月28日月曜日
アカデミー賞にチャチャ入れる
簡単にあらすじについて触れておくと、舞台は第二次世界大戦期の英国。国王のジョージ6世は、今にも迫り来るナチスドイツへの徹底抗戦を、スピーチを通して国民に訴える。言語療法士ライオネル・ローグの助けを借りて、吃音という障害の克服に挑む姿を描いている。
2011年1月8日土曜日
あの焼肉を訪ねて—神奈川・大和
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| 焼肉店「天狗家」 |
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| ライス大 |
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| カルビ2人前 |
2010年9月16日木曜日
イスラム地区、ジモティーに誘(いざな)われ
夕方というにはまだちょっと早い時間帯。アレクサンドリア発の列車からラムセス駅に降り立つと、真っ先にイスラム地区に向けて歩を進めた。日本に出発するのはこの日の晩。それまでにどうしても見ておきたいエリアだったのだ。

門をくぐると、世界が一変した。足下からは石畳が広がり、視線の先にある建物、建物からイスラムのテーストが感じられた。イスラム建築というと、ドーム型の屋根を連想する人も多いと思うけれど、ミナレットと呼ばれる「尖塔」もあちらこちらに建っていた。
「日本人?」。「そうだ」と答えると、男性は「トランジスタ」「柔道」と日本語で話し、背負い投げの型を小さくやってみせた。聞くと、おっちゃんはかつてエジプト軍に所属しており、そのときに日本人から直接柔道を教わったのだという。「トランジスタなんて言葉、ここのところめっきり耳にしなくなったなあ」なんて思いながら、見知らぬおっちゃんに対する警戒心は溶けていったのでした。


そうこうしているうちに、ふと時計に目をやると針が7時を指していた。「そろそろ行かなくては」。おっちゃんと固い握手を交わし、僕はタクシーに飛び乗った。
2010年9月15日水曜日
「アラブ」の反米感情—アレクサンドリア
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| アレキサンドリア図書館 |
歩き疲れて、椅子に座ってボーっとしていると、1人の男性が話しかけてきた。現地の人らしく立派なあご髭を蓄え、清潔感のあるポロシャツにジーンズ姿だ。
「隣に座っていい?」と礼儀正しい一言に、「もちろん」と返答した。わたしが日本人だと分かると、「ミギ」「ミギ」としきりに言う。何度も聞き返すうちに、彼の言っているのが「メイジ」だと分かった。「MIGI」と「MEIJI」を混同したのだろう。
「エンペラー・メイジは偉大だ」と言った後、今度は「エンペラー・ヒロヒト」「ヒロシマ」「ナガサキ」と知っている日本語を続けた。やっぱりここは図書館だけあって、好奇心旺盛な人が集っている。どうやら日本の近代史を学んだことのある人のようだ。
「アメリカは好きか?」。原爆投下の地を挙がった後、こんな質問が降ってきた。そこで思い出したのは、ガイドブック「地球の歩き方」に載っていた一文。「現地の人と政治について話すときは気をつけましょう。知らないうちに怒らせてしまうことがあります」——
直接的な回答を避けながらも、正直に思うところを伝えた。「原爆は決して許せない。けれどもアメリカというよりも、むしろ戦争という行為自体により強い怒りを覚える。戦争をするのは政府だが、苦しむのは一般人だ」
彼はわたしの言葉に納得した様子だったが、続いて持論を展開した。「自分のものを他人に奪われたらどうする? 見て見ぬ振りをするか? いや、そいつと戦って奪い返すだろう? オレたちは今、同じ状況にあるんだ。アメリカは、オレたちアラブから土地を奪ってイスラエルをつくった。オレたちは戦って、それを奪い返すんだ」
わたしは話の接ぎ穂を失い、無言でいるしかなかった。
「お前はいい奴だ。別にお前に戦えと言ってるわけじゃないよ」。彼はそう言うとポケットから1ポンド硬貨を取り出し、「友だちの証だ」と手渡して立ち去った。
どう見ても、彼は過激派とは縁のない一般市民だ。反米感情が、市民レベルに深く根差し、そしてひとつの国や地域だけではなく、アラブ社会全域に広がっていることを目の当たりにした瞬間だった。
2010年9月14日火曜日
バス運転士の「さじ加減」—カイロ
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| バスの中から見たピラミッド |
2010年9月12日日曜日
紛争地帯で事故る—アブ・シンベル
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| 砂漠のど真ん中で立ち往生 |
これは外務省海外安全ホームページのエジプト南部に関する危険情報の一節だ。アスワン—アブ・シンベル間は、20〜30台のバスが隊列を組み、警察車両に護衛されながら移動する。わたしはホテルで申し込めるツアーに参加した。
午前3時、従業員に部屋をノックして起こしてもらい、1階のロビーで待機。少し遅れて4時前になって、トヨタのワゴン車がホテル前に現れ、わたしを拾った。街の外れで他のバスが集まってくるのを半時間ほど待ち、いよいよ出発した。
走り出してみると、運転手が「飛ばし屋」ぶりが発覚した。どんどんスピードを上げ、隊列を組んでいるはずの前の車をどんどん追い抜いていく。まるでカーレースに参加しているみたいだ。いったん街を抜けると、広がるのは信号も何もない砂漠。「確かに車同士の衝突は考えにくいけれど、どこか不安…」
そんな予感が的中したのは、空が白み始めた5時ごろ。ガタガタ、ガタガタ。大きな音が車内に響き、眠りの世界から現実世界に一気に引き戻された。ガタガタ、ガタガタ。音は一向に止まない。「ウオー」。車内で自然と上がる、悲鳴にも似た声。
停車すると、焦げ臭いが車内に充満した。乗客が次々と飛び降りた後、状況が明らかになった。どうやら後輪が大きい石を踏み、タイヤがそれを巻き込んだようだ。運転手はタイヤを交換し始めたが、作業に手こずっている様子。タイヤだけでなく、ホイールも壊れていたらしく、作業は次第に大掛かりになった。
再出発まで半時間。砂漠のど真ん中、しかも警察が護衛するほど危険地帯で、ポツリとたたずんだ。
「まあいっか。エジプトには砂漠を巡るツアーもあるし…」
は〜るばる来たぞ大神殿—アブ・シンベル
アブ・シンベル大神殿 |
大神殿前でヨガをするグループ |
2010年9月11日土曜日
異国で遭ったオヤジ狩り—アスワン
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| ナイル川から眺めた岩窟墳墓群 |
岩窟墳墓群は、古代エジプトやローマ時代の支配層の墓だ。小高い丘を利用して作られており、ナイル川対岸にある市街地からも、その偉容を眺められる。
足を運ぼうと思ったのは、入場締め切り時刻近い午後5時だった。到着を急ごうと、現地の人が利用する乗り合いボートではなく、岸辺で声を掛けてきた人のボートを利用した。
乗っているのは、わたしのほかに現地の乗組員2人。岸を勢い良く離れたボートは対岸に向かったが、岩窟墳墓群の方向からは微妙にずれている。「やばい」。悪い予感がわたしの中でくすぶり始め、直後にそれが当たってしまった。
ボートは中州に停泊し、そこに乗組員の仲間たちが待っていたのだ。「25ドル」。男たちは何度も要求してきた。連れてきた乗組員らの方を見ると、顔に笑みを浮かべている。
わたしは内心「25ドル程度だったら痛くない」と思いつつも、「要求をすぐに受け入れたら、次の要求が出てくるかもしれない」と心配し、「対岸に行くか、戻るかどっちかにせい」と突っぱね続けた。
根負けしたのは、乗組員の側だった。そもそもボート運搬は家族で経営しているらしく、出発した岸では子どもや老人が彼を待っている。性根を据えて悪事を働けるガラではなかったのだ。
乗組員は仲間に挨拶すると、再びボートを出発させた。今度こそは、対岸に向けて。
旅先での孤立は、ときに命取りになる——




























