2010年9月16日木曜日

イスラム地区、ジモティーに誘(いざな)われ

地方へと路線が延びるカイロ最大の駅はラムセス駅と呼ばれる。紀元前13世紀に版図を広げて活躍したファラオの名にちなんでいる。

 夕方というにはまだちょっと早い時間帯。アレクサンドリア発の列車からラムセス駅に降り立つと、真っ先にイスラム地区に向けて歩を進めた。日本に出発するのはこの日の晩。それまでにどうしても見ておきたいエリアだったのだ。

 30分以上歩いただろうか。地図上では1.5㌔ほどだったはずなのに、歩けども歩けどもそれらしき風景が見えてこない。「道を間違えたんだろうか?」 そう思いながらきょろきょろしていると、突然辺りが開け、大通りに出た。見ると、道路に沿って高さ3〜4㍍の壁がずーっと先まで続いている。

 「これがイスラム地区か」。教えてもらう必要もなく、それが目的地だということは一目瞭然だった。市街地を取り囲んで延々と続く城壁からは、「外敵の侵入をはね返して永遠に存続するぞ」という、かつてここを拠点にしたイスラム王朝の"叫び"が聞こえてきた。

 門をくぐると、世界が一変した。足下からは石畳が広がり、視線の先にある建物、建物からイスラムのテーストが感じられた。イスラム建築というと、ドーム型の屋根を連想する人も多いと思うけれど、ミナレットと呼ばれる「尖塔」もあちらこちらに建っていた。

 ハーン・ハリーリと呼ばれる土産物店が軒を連ねる一画を越えた辺りで、1人の60歳代くらいのおっちゃんに声をかけ
られた。

 「日本人?」。「そうだ」と答えると、男性は「トランジスタ」「柔道」と日本語で話し、背負い投げの型を小さくやってみせた。聞くと、おっちゃんはかつてエジプト軍に所属しており、そのときに日本人から直接柔道を教わったのだという。「トランジスタなんて言葉、ここのところめっきり耳にしなくなったなあ」なんて思いながら、見知らぬおっちゃんに対する警戒心は溶けていったのでした。

 おっちゃんが「付いておいで」というので、今まで通ってきた大通りから路地に足を踏み入れた。「これは、だいたい500年、600年前の建物だよ」というので、「古いねえ」と返すと、「そんなこと全然ない。こんなの新しい建物だよ」と言って笑った。そりゃそうか。だって、ここから目と鼻の先にあるピラミッドなんて、紀元前2500年頃に造られたというし。

 やっぱりジモティー(地元の人)は違う。日が暮れかかって見学時間が終わっているというのに、係の人に声をかけて開けてもらえるんだから。紹介してもらった建物は、かつて地元の名士がすんでいたもの。部屋を仕切る木製の窓や、天井一面には幾何学模様が細かーく施されている。端々にまで神経を通わせたデザインを目の当たりにして、イスラム文化の奥深さを肌で感じた。

 屋上に出ると、周囲の建物が夕日を受けて輝いていた。
お茶目なおっちゃんは、屋上から飛び降りる動作をしながら「エジプトエアー」といっておどけて見せた。続いて僕も「ジャパン・エアライン」と言って飛び降りる仕草をした後、2人で大笑いした。

 そうこうしているうちに、ふと時計に目をやると針が7時を指していた。「そろそろ行かなくては」。おっちゃんと固い握手を交わし、僕はタクシーに飛び乗った。

2010年9月15日水曜日

「アラブ」の反米感情—アレクサンドリア

アレキサンドリア図書館
 紀元前300年ごろに建てられたという図書館を再現し、2001年にオープンしたのが現在のアレキサンドリア図書館。その内部は入ってみてビックリ。ビル6階建てほどの高さの吹き抜け空間に、階段状の床が設けられ、本棚や机がぎっしり並んでいる。

 歩き疲れて、椅子に座ってボーっとしていると、1人の男性が話しかけてきた。現地の人らしく立派なあご髭を蓄え、清潔感のあるポロシャツにジーンズ姿だ。

  「隣に座っていい?」と礼儀正しい一言に、「もちろん」と返答した。わたしが日本人だと分かると、「ミギ」「ミギ」としきりに言う。何度も聞き返すうちに、彼の言っているのが「メイジ」だと分かった。「MIGI」と「MEIJI」を混同したのだろう。

  「エンペラー・メイジは偉大だ」と言った後、今度は「エンペラー・ヒロヒト」「ヒロシマ」「ナガサキ」と知っている日本語を続けた。やっぱりここは図書館だけあって、好奇心旺盛な人が集っている。どうやら日本の近代史を学んだことのある人のようだ。

 「アメリカは好きか?」。原爆投下の地を挙がった後、こんな質問が降ってきた。そこで思い出したのは、ガイドブック「地球の歩き方」に載っていた一文。「現地の人と政治について話すときは気をつけましょう。知らないうちに怒らせてしまうことがあります」——

 直接的な回答を避けながらも、正直に思うところを伝えた。「原爆は決して許せない。けれどもアメリカというよりも、むしろ戦争という行為自体により強い怒りを覚える。戦争をするのは政府だが、苦しむのは一般人だ」

 彼はわたしの言葉に納得した様子だったが、続いて持論を展開した。「自分のものを他人に奪われたらどうする? 見て見ぬ振りをするか? いや、そいつと戦って奪い返すだろう? オレたちは今、同じ状況にあるんだ。アメリカは、オレたちアラブから土地を奪ってイスラエルをつくった。オレたちは戦って、それを奪い返すんだ

 わたしは話の接ぎ穂を失い、無言でいるしかなかった。

 「お前はいい奴だ。別にお前に戦えと言ってるわけじゃないよ」。彼はそう言うとポケットから1ポンド硬貨を取り出し、「友だちの証だ」と手渡して立ち去った。

 どう見ても、彼は過激派とは縁のない一般市民だ。反米感情が、市民レベルに深く根差し、そしてひとつの国や地域だけではなく、アラブ社会全域に広がっていることを目の当たりにした瞬間だった。

2010年9月14日火曜日

バス運転士の「さじ加減」—カイロ

バスの中から見たピラミッド
 有名なクフ王のピラミッドやスフィンクスは、カイロ・ギザ駅から20㌔弱。歩いて行くにはちょっと遠い。ガイドブックを開いてバス停への行き方を調べていると、地元の40代くらいの男性が声を掛けてきた。
 彼は、ハイアットだかの外資系ホテルで警備の責任者を務めているという。物腰が柔らかく、外国人に親近感を持っている様子だ。「ピラミッドに行きたいんだろ?」と言うと、停留所まで連れて行ってくれた。
 一緒にバスが到着するのを待ってくれたのは、ありがたかった。現地のバスは、行き先をアラビア文字で記している。数字までもがアラビア文字なので、乗るべきバスを見分けるのは至難の業なのだ。
 さらに彼が力になってくれたのは、バスが来て、いざ乗ろうとしたときだ。停留所にさしかかっているのに、バスはスピードを落とそうとしない。彼は、通り過ぎそうなバスに、「乗りたい」と意思表示した。それでもバスは減速しただけで、完全には止まらなかったけれど、彼に促されて僕はなんとか飛び乗ることができた。
 最後列の席に座って、ガラス越しに振り返ったが、彼はすでに雑踏の中に消えていた。
 それから人が乗ってくるのを見ていると、バスが人を乗せるときに減速はするけれど、完全には止まらないことが分かった。この「減速」というのがくせ者で、年を召した女性が乗るときにはほぼ停止状態に近いのだけれど、男のときには減速が十分じゃないときもある。バスに乗れるか、乗れないか。それは運転士のさじ加減ひとつなのだ。
 ひとりの中年男性が乗ろうとしたときは、いったんは手すりを握ったのだけれど、スピードが落ちなかったために体を車両に入れられなかった。憂いに満ちた表情の男が、バックガラス越しに小さくなっていった。

2010年9月12日日曜日

紛争地帯で事故る—アブ・シンベル

砂漠のど真ん中で立ち往生
 「イスラム教徒とキリスト教徒の争い、部族間の争い、警察への抗議が過激化。治安部隊との衝突も発生しています」
 これは外務省海外安全ホームページのエジプト南部に関する危険情報の一節だ。アスワン—アブ・シンベル間は、20〜30台のバスが隊列を組み、警察車両に護衛されながら移動する。わたしはホテルで申し込めるツアーに参加した。
 午前3時、従業員に部屋をノックして起こしてもらい、1階のロビーで待機。少し遅れて4時前になって、トヨタのワゴン車がホテル前に現れ、わたしを拾った。街の外れで他のバスが集まってくるのを半時間ほど待ち、いよいよ出発した。
 走り出してみると、運転手が「飛ばし屋」ぶりが発覚した。どんどんスピードを上げ、隊列を組んでいるはずの前の車をどんどん追い抜いていく。まるでカーレースに参加しているみたいだ。いったん街を抜けると、広がるのは信号も何もない砂漠。「確かに車同士の衝突は考えにくいけれど、どこか不安…」
 そんな予感が的中したのは、空が白み始めた5時ごろ。ガタガタ、ガタガタ。大きな音が車内に響き、眠りの世界から現実世界に一気に引き戻された。ガタガタ、ガタガタ。音は一向に止まない。「ウオー」。車内で自然と上がる、悲鳴にも似た声。
 停車すると、焦げ臭いが車内に充満した。乗客が次々と飛び降りた後、状況が明らかになった。どうやら後輪が大きい石を踏み、タイヤがそれを巻き込んだようだ。運転手はタイヤを交換し始めたが、作業に手こずっている様子。タイヤだけでなく、ホイールも壊れていたらしく、作業は次第に大掛かりになった。
 再出発まで半時間。砂漠のど真ん中、しかも警察が護衛するほど危険地帯で、ポツリとたたずんだ。
 「まあいっか。エジプトには砂漠を巡るツアーもあるし…

は〜るばる来たぞ大神殿—アブ・シンベル

アブ・シンベル大神殿
 手荷物検査を受けてゲートを抜けると、目の前に10階建てほどの高さの土山が現れる。どうやら、この「盛り上がり」が神殿らしい。ぐるっと回り込むと、正面入り口が見えてきた。
 「ずいぶん遠くまで来たもんだ」。旅行チラシやガイドブックで見た大神殿の実物が、いま目の前にある。長い旅路と時差ぼけのせいで、霧がかかったようにモヤモヤしている脳に、ようやく感慨が沸き上がってきた。
 大神殿は紀元前1200年ごろ、ラムセス2世の時代に造られた。しかし造営の目的や、首都テーベ(現在のルクソール)から遠く離れたこの地が選ばれた理由は、未だに分かっていないという。
 現在の大神殿は、周囲三方をナスル湖に囲まれている。実は1960年に始まったアスワンハイダムの建造で水没の危機にさらされたが、ユネスコの支援を受けて湖畔に移築されたのだ。約1000のブロックに切り取り、アーチ型の山の内部に張り付ける作業は「あまりの規模の大きさに圧倒される」ほどだったらしい(吉村作治著『ピラミッド文明・ナイルの旅』)
 内部は5〜6㍍ほどの高さの大部屋に、いくつかの小部屋が付属する造り。立ち並ぶ石像に迫力があるほか、壁という壁に施された彫刻や絵画が、費やされた労力と時間を物語っている。今回の旅で見た遺跡の中で、ベスト3に入る逸品だった。



大神殿前でヨガをするグループ
 大神殿前の広場では、人々が思い思いに時間を過ごす。「そこのベンチで夜を明かした」と話してくれたのは、関西からやってきた大学生3人組。砂漠で野営していたところ、「危険だから」と警察に連れてこられたという。たくましいのやら、危なっかしいのやら(笑)。目を移せば、西洋人グループがヨガをしていた。セミナー好きな国民性を持つ、アメリカ人たちかな?

2010年9月11日土曜日

異国で遭ったオヤジ狩り—アスワン

ナイル川から眺めた岩窟墳墓群
 エジプトの南端、スーダン国境近くの街アスワン。アブ・シンベル宮殿への足がかりとして、多くの旅人たちはここで一泊する。何千年も前からヌビア人という民族が住んできた。その顔立ちは「中東」より「アフリカ」の要素が強く、「遠くにやって来たぞ」という旅愁をかき立ててくれる。
 岩窟墳墓群は、古代エジプトやローマ時代の支配層の墓だ。小高い丘を利用して作られており、ナイル川対岸にある市街地からも、その偉容を眺められる。
 足を運ぼうと思ったのは、入場締め切り時刻近い午後5時だった。到着を急ごうと、現地の人が利用する乗り合いボートではなく、岸辺で声を掛けてきた人のボートを利用した。
 乗っているのは、わたしのほかに現地の乗組員2人。岸を勢い良く離れたボートは対岸に向かったが、岩窟墳墓群の方向からは微妙にずれている。「やばい」。悪い予感がわたしの中でくすぶり始め、直後にそれが当たってしまった。
 ボートは中州に停泊し、そこに乗組員の仲間たちが待っていたのだ。「25ドル」。男たちは何度も要求してきた。連れてきた乗組員らの方を見ると、顔に笑みを浮かべている。
 わたしは内心「25ドル程度だったら痛くない」と思いつつも、「要求をすぐに受け入れたら、次の要求が出てくるかもしれない」と心配し、「対岸に行くか、戻るかどっちかにせい」と突っぱね続けた。
 根負けしたのは、乗組員の側だった。そもそもボート運搬は家族で経営しているらしく、出発した岸では子どもや老人が彼を待っている。性根を据えて悪事を働けるガラではなかったのだ。
 乗組員は仲間に挨拶すると、再びボートを出発させた。今度こそは、対岸に向けて。
 旅先での孤立は、ときに命取りになる——

憧れの的 日本人女性—アスワン

 日中に断食する「ラマダン」を前日に終え、街はお祭りムードに包まれていた。
 「ハロー」。行き交う男や子どもたちが、人懐っこく声を掛けてくる。イスラム社会だけあって成人女性が積極的に話し掛けてくることはないが、赤や黄色の衣装に身を包んだ出で立ちは、街の雰囲気をぐっと明るくする。
 同年代の男たちは、わたしが日本人だと分かると、「日本人女性が好きだ」としきりにアピールしてきた。ある青年は携帯電話を取り出し、「日本人女性を待ち受け画面にしているんだ」と見せた。別の青年は「将来、日本人女性と結婚し、日本で働くのが夢なんだ」と熱く語ってくれた。
 後で聞いたところだど、日本人女性に対する人気はそれ自体の魅力に加えて、「結婚すれば新しい人生を切り開けるかもしれない」という彼らの"逆玉志向"にも支えられているらしい。
 ちなみに最近、彼らの間で株が急騰中なのが韓国人女性。「やっぱり時代は韓国なのか」。こんなところでも国力の栄枯盛衰が感じ取られるのでした。