午後9時ごろ、お腹を空かして大阪・ミナミの商店街を歩いていると、聞き覚えのある名の飲食店に出くわした。「自由軒」。一風変わったカレーを出す店として、テレビなどでも取り上げられている店だ。ものは試しに入ってみた。
「大衆洋食」と銘打つだけあって、店内は庶民的な雰囲気だ。壁には西洋画が何点か掛かっていて、老舗の上品さも持ち合わせていた。聞くと店は今年、91年目を迎えたという。
看板メニュー「名物カレー(650円)」を注文した。店員さんは「インディアン」と厨房に声を掛けた。「インド仕込みの本格派が出てくるんだろうか」。否応なく期待が高まる。
出てきた料理は、ルーとライスが分けられた一般的なカレーとは違う。ご飯はすでにカレーと合わさっており、その上に生卵が載っている。ピラフみたいにパサパサした食感を予想して口に運んだが、実際には水分をたくさん含んで(いい意味で)ベッタリしていた。具は牛肉とタマネギだけと、いたってシンプル。香辛料がよく効いており、辛い物好きのぼくには食べ応えがあった。
あらためて店内を見渡すと、一枚の額が目に付いた。「トラは死んで皮をのこす。織田作死んでカレーライスをのこす——自由軒本店 織田作文学発祥の地」と書かれていた。「大阪らしく誇張された表現やなあ」と笑ってしまったけれど、メニューに誇りを持っているお店の姿勢には好感を持った。また同時に、店の精神的な支えとなっている織田作之助とはどんな作家なのか、興味が沸いてきた。その数日後、「夫婦善哉」の文庫を買った。
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物語の舞台は、昭和初期の大阪。借金のある家で育った蝶子が、芸者として働きだすところから始まる。そこで知り合った妻子持ちの男・柳吉と恋仲になり、夫婦として年月を経る姿を描いている。
柳吉は、いわゆるダメな男だ。化粧品の卸問屋の跡取りに生まれながら、蝶子に入れ込んで離婚し、跡取りの座も妹の婿養子に奪われてしまう。金に困ると妹に金をせびりに行く。蝶子がお座敷に上がって稼いだり、蝶子と一緒にさまざまな商売して貯めた金も、その都度散財してしまう。
でも、どこか憎めない。手元にあるお金は、とっておけば生活が楽になるのに、カフエ(飲み屋)の女性にチップとして弾んでしまう。損得勘定ができない姿に、「バカだなあ」と思いつつも、「逆に日々の自分は損得勘定に縛られ過ぎてないか?」と一抹の憧れを抱いてしまった。
蝶子は、健気という言葉がぴったりくる女性だ。これだけダメな柳吉に、なんべん裏切られても付いて行く。生活が苦しくても、「妾にならないか?」なんていう話には目もくれない。逆境にあっても矜持、プライドを手放さない様は格好いい。
柳吉のわがままに振り回され、蝶子は母の死に際に立ち会えない。絶望の淵に立たされた蝶子は、物心両面の苦しさから抜け出そうとガス自殺を試みる。「男女が一緒にいる、夫婦として生きる意味ってなんだろう?」。読みながら、そんな鬱屈した思いが頭をもたげてくる。しかし物語は最後、夫婦が法善寺横町の店で仲睦まじく善哉を食べるシーンで幕を閉じ、読み手をホッとさせてくれる。
「この物語を通して、作者は一体何を伝えたかったんだろう?」。そんな問いを自分の中で繰り返しながら、タイトルの「善哉」という言葉について調べてみた。そこで意外な事実を知り、ぼくは思わずはたと膝を打った。
善哉は、音読みでは「ゼンザイ」だけれど、訓読みは「ヨキカナ」。つまり、この小説は、「夫婦よきかな」というテーマのもと、男女がともに生きる素晴らしさを追究していたのだ。
それぞれのシーンでは、幸せどころか、苦しい境遇にある男女を描きながら、物語全体としては夫婦への“賛歌”としてまとめ上げてしまう。そんな織田作之助の腕前に脱帽です。
それぞれのシーンでは、幸せどころか、苦しい境遇にある男女を描きながら、物語全体としては夫婦への“賛歌”としてまとめ上げてしまう。そんな織田作之助の腕前に脱帽です。