2011年6月18日土曜日

「夫婦善哉」と自由軒

織田作之助の短編小説「夫婦善哉」を手に取ったのは、ひょんなことがきっかけだった。

 午後9時ごろ、お腹を空かして大阪・ミナミの商店街を歩いていると、聞き覚えのある名の飲食店に出くわした。「自由軒」。一風変わったカレーを出す店として、テレビなどでも取り上げられている店だ。ものは試しに入ってみた。

「大衆洋食」と銘打つだけあって、店内は庶民的な雰囲気だ。壁には西洋画が何点か掛かっていて、老舗の上品さも持ち合わせていた。聞くと店は今年、91年目を迎えたという。

看板メニュー「名物カレー(650円)」を注文した。店員さんは「インディアン」と厨房に声を掛けた。「インド仕込みの本格派が出てくるんだろうか」。否応なく期待が高まる。

 出てきた料理は、ルーとライスが分けられた一般的なカレーとは違う。ご飯はすでにカレーと合わさっており、その上に生卵が載っている。ピラフみたいにパサパサした食感を予想して口に運んだが、実際には水分をたくさん含んで(いい意味で)ベッタリしていた。具は牛肉とタマネギだけと、いたってシンプル。香辛料がよく効いており、辛い物好きのぼくには食べ応えがあった。

あらためて店内を見渡すと、一枚の額が目に付いた。「トラは死んで皮をのこす。織田作死んでカレーライスをのこす——自由軒本店 織田作文学発祥の地」と書かれていた。「大阪らしく誇張された表現やなあ」と笑ってしまったけれど、メニューに誇りを持っているお店の姿勢には好感を持った。また同時に、店の精神的な支えとなっている織田作之助とはどんな作家なのか、興味が沸いてきた。その数日後、「夫婦善哉」の文庫を買った。

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 物語の舞台は、昭和初期の大阪。借金のある家で育った蝶子が、芸者として働きだすところから始まる。そこで知り合った妻子持ちの男・柳吉と恋仲になり、夫婦として年月を経る姿を描いている。

柳吉は、いわゆるダメな男だ。化粧品の卸問屋の跡取りに生まれながら、蝶子に入れ込んで離婚し、跡取りの座も妹の婿養子に奪われてしまう。金に困ると妹に金をせびりに行く。蝶子がお座敷に上がって稼いだり、蝶子と一緒にさまざまな商売して貯めた金も、その都度散財してしまう。

でも、どこか憎めない。手元にあるお金は、とっておけば生活が楽になるのに、カフエ(飲み屋)の女性にチップとして弾んでしまう。損得勘定ができない姿に、「バカだなあ」と思いつつも、「逆に日々の自分は損得勘定に縛られ過ぎてないか?」と一抹の憧れを抱いてしまった。

蝶子は、健気という言葉がぴったりくる女性だ。これだけダメな柳吉に、なんべん裏切られても付いて行く。生活が苦しくても、「妾にならないか?」なんていう話には目もくれない。逆境にあっても矜持、プライドを手放さない様は格好いい。

柳吉のわがままに振り回され、蝶子は母の死に際に立ち会えない。絶望の淵に立たされた蝶子は、物心両面の苦しさから抜け出そうとガス自殺を試みる。「男女が一緒にいる、夫婦として生きる意味ってなんだろう?」。読みながら、そんな鬱屈した思いが頭をもたげてくる。しかし物語は最後、夫婦が法善寺横町の店で仲睦まじく善哉を食べるシーンで幕を閉じ、読み手をホッとさせてくれる。

「この物語を通して、作者は一体何を伝えたかったんだろう?」。そんな問いを自分の中で繰り返しながら、タイトルの「善哉」という言葉について調べてみた。そこで意外な事実を知り、ぼくは思わずはたと膝を打った。

善哉は、音読みでは「ゼンザイ」だけれど、訓読みは「ヨキカナ」。つまり、この小説は、「夫婦よきかな」というテーマのもと、男女がともに生きる素晴らしさを追究していたのだ。

それぞれのシーンでは、幸せどころか、苦しい境遇にある男女を描きながら、物語全体としては夫婦への“賛歌”としてまとめ上げてしまう。そんな織田作之助の腕前に脱帽です。

2011年6月8日水曜日

歴史を「逆流」する

NHK・Eテレの番組「さかのぼり日本史」は画期的だ。といっても内容が、ではない。歴史を切り取る手法が、である。

これまで歴史を学ぶ方法は、時間の流れに沿って「時代を下る」のが当たり前だった。中学や高校の歴史の授業では、ネアンデルタール人とか石器時代とかから始まり、古代、中世、近世と次第に現在に近付いてくる。
そういう歴史のたどり方は、社会全体についてだけではなく、個人についても同じことが言える。例えば、結婚式で流される新郎や新婦の生い立ちの映像は、赤ちゃん時代から始まって、成長をなぞりながら二人の出会いをゴールとして描くのがお決まりだ。

でもこの番組は、そのタイトルの通りに時代をさかのぼる。まず最初は戦後の政治を、その次に太平洋戦争、日中戦争、満州事変を取り上げる。そして昭和初期の政党政治が続く、といった流れなのだ。
このやり方の良い点は二つある。ひとつは「なぜそうなったの?」といった疑問や関心を、学ぶ人により強く、強烈に持たせられること。これまで通り、普通に歴史を学ぶと「原因→結果」という順序で出来事を知ることになり、「結果」を知るときには既に「原因」が当たり前の事柄になってしまっているのだ。戦争など起こってしまった事について、「原因を知りたい」という“渇き”を持つ事は、歴史が動くメカニズムにより焦点を当てることになる。
次に、近現代の学習にしっかりと時間を割けることもメリットだ。従来は、原始時代〜江戸時代に大半の時間を費やし、近現代は余った時間でささっとやる傾向があった。ところが、時代をさかのぼる形式だと、近現代が真っ先に扱う時代になるため、十分な時間を割けるようになる。

近現代を振り返るということは、日本がさまざまな犠牲を払いながらも、民主主義を定着させてきたプロセスをおさらいすることでもある。「民主主義が上手く機能しない」という現在の日本が抱える最大の問題の「解」は、この時代にじっくりと真っ正面から向き合うことから生まれる。
歴史の学習が、現代社会の改善に役立つチャンスだ。学校教育の現場でも、歴史を逆流してみたらどうかな?